上野不忍

先日、平日の朝に上野不忍池まで行って来て、蓮の花が満開ではないですが、とても奇麗に咲いていたので、FBとこちらにもアップしておきます。
もう1枚は毎度おなじみ、7月初旬の大公孫樹。
20140723不忍池20120706大公孫樹
以前鶯渓会理事の勝野さん(48期)から頂いたコメントを抜粋してご紹介させて頂きます。
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現在の忍岡高校の校舎の建っている場所は昔、平戸藩松浦(まつら)壱岐守の上屋敷と小堀遠州作の大名庭園・蓬莱園があった場所でした。
蓬莱園は六義園や小石川庭園と並ぶと言われた名園でした。
 
しかし1923年(大正12年)の関東大震災により、壊滅的な被害を受けてしまいました。
その為、松浦氏から東京市に譲り渡され、その後、東京市はこの地に「東京市立忍岡高等女学校」の校舎を建築しました。
そして、1940年(昭和15年・この年は皇紀2600年という年でした。)「忍岡高等女学校」は池之端茅町より現在地に引っ越して来ました。
この時の様子は第26期の塚越さんから直接伺いましたが、「生徒たちは各自の椅子と様々な学校の備品を持って、蟻の行列の様に池之端茅町より現在地まで歩いた」とのことでした。
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 また、学校65周年の記念の『旧松浦邸周辺江戸古地図』や『旧蓬莱園と現校舎配置との対照』という興味深い絵はがきがあるそうです。

皆さんも身近な出来事でもコメントお寄せください。こちらで編集、掲載致します。  佐々木 弘

「上野不忍」への4件のフィードバック

  1. 毎度!

    昔は上野公園・池之端一体を”忍岡”って呼んだんだね!

    http://kotobank.jp/word/%E5%BF%8D%E5%B2%A1

    そう言えば忍中も上野公園の北端にあるし、調べたら忍岡小学校ってのもまだ池之端1丁目(昔の池之端茅町/不忍池の西側一帯)にあるますね!

    やっと校名の由来にたどりついた(笑)・・・

  2. 全くの私事ですが、父が忍中の教師をしていた時期がありました。
    そのせいか、91群の中で忍岡に入学が決まった時は、とても喜んでくれました。
    その父も今年87才。
    耳は遠くなりましたが、今でも趣味の俳句であちこち吟行に出かけて元気です。

  3. 久々のスタッフ以外のコメントありがとうございます。
    在校時は校名の由来なんて気にしたいなかったけど、この歳になっていろいろ知ってみると面白いものですね。

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